*本講義は終了いたしました
EDIT LIFE TOKYOでは毎月2回、写真家、高橋恭司の写真私塾「E’cole de Takahashi」を開講しています。
3月19日(土)に開催される「写真術勉強会」の募集を開始しました。 次回のテーマは「写真/時間」です。
高橋恭司私塾『E’cole de Takahashi』 写真術勉強会Vol.06:「写真/時間」
日程:2016年3月19日(土)OPEN 14:30/勉強会 15:00〜17:30/CLOSE 18:00
参加費:¥3,000(当日お支払いください)
定員:15名 *どなたでもご参加いただけます。下記Peatixよりお申し込みください。
会場:EDIT LIFE TOKYO(東京都渋谷区神宮前2-27-6 TEL:03-5413-3841)*参加費は当日お支払いをお願い致します。
*次回のスケジュールは確定次第、Facebook、instagramでお知らせ致します。
募集開始にあたって、前回の講義「抽象/写真」について振り返ります。
勉強会にあたって用意された図版の冒頭には、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクのテキストが引用されていました。高橋は、抽象表現の背景にある本質は、哲学の領域に存在すると感じているようです。
そして、ゴッホ、ダ・ヴィンチ、エドワード・ホッパー、フランシス・ベーコンの絵、ナダールの写真とともに、プラトン、フロイト、ラカン、ジル・ドゥルーズなどの思想と哲学が紹介されました。
絵は、プラトンが見かけの向こうにあるというイデアと競うのである。
——ジャック・ラカン
重要性を持つものと重要性を持たないものに関する評価に結びつけられている。
——ジル・ドゥルーズ
絵が伝えるもの、その背景にある哲学。そして、哲学が鋭い視線で読み解く社会構造についても話は進みました。ジジェクのテキストは、スターリズムとユーゴスラヴィアの自主管理社会主義にも及びました。
どんな犠牲を払っても〈党〉の統一という見かけは保持されなけらばならない。
——スラヴォイ・ジジェク
どうして最大の敵は(党と国家)的官僚制度などと言うんだ?
——スラヴォイ・ジジェク
抽象表現の「見かけ」を思考することは、現実社会の「見かけ」を思考することと等しいのかもしれません。物事の本質を決定づける評価自体が揺らぐ時代において、現実もまた、抽象となりうる可能性を秘めています。現実の「一瞬」を切り取る写真は、今後、どのような抽象性を孕んでいくのでしょうか。注意深く話は進みました。
写真私塾「E’cole de Takahashi」の講義内容は、写真を読み解くための「写真術勉強会」と、写真を撮るワークショップ「ロードムーヴィ」の2講座。「写真術勉強会」は毎回テーマを掲げて、高橋恭司がどのように写真と向き合っているのかを知ることで、写真をより深く読み解くための技術を学びます。
【E’cole de Takahashi】
写真を読み解く「写真術勉強会」
もし誰かがこう考えたとしよう、自分にとって写真が世界の中心で、写真のために人間が何ができるのかと。(それはまったくバカげたことなのだろうか?)
よく考えてみると写真が「世界の中心」ではまったくないし、「人間」というのが私やあなたではない。 けれど、しかし、だからといって、写真のために自分は動きだしたいと想ってしまう。
自分のこのような欲望を、まず異常だとしてもよいのだが、それだからといって、何だということでもない。 いったい自分以外のことを「何とかしたい」と関わることは、とくに不思議なことではない。
視点を変えると、そのように撮られた写真(あるいは、どのようにであれ撮られた写真)に、私やあなたは何を見るのであろうか。
私たちの目の前にぽっかり空いた窓のように、突然写真があるのだとしたら。私たちはその異物に対して「見る力」をつけなければなと思う。逆転した人間の発した暗号を今や解読する時がきた。「写真に捕らわれて撮る者」「空中に浮いた窓」その「暗号を受けとる者」という3つの事が考えられる。そのトライアングルに自分の身体を入れてみよう。そこには何かが開かれているのではないか?
—高橋恭司—
では、3月19日の講義にてお会いしましょう。
主体レベルでは、騙すふりをして騙すのである。
——スラヴォイ・ジジェク