写真家、高橋恭司の写真私塾「E’cole de Takahashi」は、急遽、終了することとなりましたのでお知らせします。
高橋恭司から、講義終了を決めた理由の言葉が届きましたので掲載します。
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「人間とは、精神である。
精神とは何であるか?
精神とは自己である。
自己とは何であるか?
自己とは自己自身に関係するところの関係である」
ーキェルケゴール 『死に至る病』ー
次回の勉強会の準備のために読みはじめたら こう書いてあります。
そのときひらめいて これからはひとりで考え 撮っていこう。
ーとなりました。
まことに勝手ですが勉強の結果かもしれません。
皆で勉強するのは楽しいことですが、
自己というのも『そこ』にでてくるのです。
表現の自由さーーー
もしかしたら、それは『精神ー自己に関係すること』ではないだろうか、
と今は考えています。それは、きびしいものです。
「何故なら、自己をもつこと、自己であること、は、
人間に許されたる最大のこと(真実に無限なる許容)であり、
同時に永遠が人間に対して要求するところのことなのだから」
ーキェルケゴール 死に至る病ー
心理的な表現ーーー
もしそういうものがあるなら、
現代の表現とはそのようなものではないだろうか、
というのが勉強会のポイントでした。
次の段階は、自分で撮り、自分で考える、ではないでしょうか。
突然ですが、
このような理由でエコールドタカハシは『突然』終わるのですが、
驚かないで下さいね。
ーー高橋恭司ーー
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写真を撮るワークショップ「ロードームーヴィ」では、
越谷、浅草橋、三郷中央、つくば、浅草、蕨などを回りました。
「私達をとりまく さまざまな言葉 力 何かえたいの知れない流れ etc。
しゅんかん それらを止めることが できるのではないだろうか。
外に出て 気がつく前に 何かをとらえられたら。
スナップショットが可能ならば。
気軽にかべをのりこえてみよう。
ふりかえらずに。」-高橋恭司-
講義で撮影された高橋の写真には、
それぞれの町のいまが写っていました。
すべての事象には繁栄と衰退があり、
写真は、しゅんかん、そのときを、止められたのでしょうか。
写真を読み解くための座学「写真術勉強会」では、
ビートニクス、ポップアート、ダダイズム、建築、抽象、時間という
テーマとともに、思想と哲学について語られました。
「私たちの目の前にぽっかり空いた窓のように、
突然写真があるのだとしたら。
私たちはその異物に対して「見る力」をつけなければなと思う。
逆転した人間の発した暗号を今や解読する時がきた。
『写真に捕らわれて撮る者』『空中に浮いた窓』
その『暗号を受けとる者』という3つの事が考えられる。
そのトライアングルに自分の身体を入れてみよう。
そこには何かが開かれているのではないか?」-高橋恭司-
人間中心主義の歴史が始まってから現代に至るまで、
アートは、思想と哲学とともにありました。
進歩主義を掲げる大衆的社会構造が飽和した後に、
ポストモダニズムはどこに向かうのでしょうか。
「思想」「哲学」「アート」「抽象」「時間」
テーマとして掲げた暗号は、私たちに、新しい扉を開かせてくれたのでしょうか。
半年の私塾の講義を終えて、
高橋は、しばらく、ひとりで活動をします。
最後に、「ロードームーヴィ|益子:2回目」にて高橋が撮影した作品を公開します。
またいつか、私塾が開かれる際に、集まりましょう。
半年間、誠にありがとうございました。
「E’cole de Takahashi」
Kyoji Takahashi
WEB EXHIBITION
「Road Movie MASHIKO 02」
© Kyoji Takahashi
お彼岸の日の撮影。
お寺で、コーヒーと京都のおかしをいただきました。
ごちそうさま。