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5月中旬から7月中旬までの約2ヶ月間、EDIT LIFE TOKYOでは地方でまちづくりに尽力するキーパーソンを招いたトークイベント『MAKERS MAKE A CKTY 〜ものづくり、まちづくり〜』を開催しました。イベント期間は終了しましたが、WEBでは引き続き、地方で活躍する方々のインタビューを掲載していきます。

今回、記事にさせていただくのは、広島県の尾道・鞆の浦周辺で事業を展開する「ディスカバーリンクせとうち」。海沿いにある倉庫をリノベーションしたサイクリストのための複合施設「ONOMICHI U2」や、地域全体をフィールドにした学びの場「尾道自由大学」、歴史ある建物を町家として甦らせた「せとうち 湊のやど」など、2012年の創立以来、さまざまなプロジェクトを行ってきた企業です。その代表でもあり、今年の4月には県議会議員に就任された出原昌直さんと、現場運営を担う小川香澄さんにまちづくりにかける想いを伺い、2回にわけてお届けします。

前編では、出原昌直さんに「ディスカバーリンクせとうち」立ち上げの経緯と、彼らの代表的なプロジェクト「ONOMICHI U2」について伺いました。

地域の特性を活かして、事業と雇用を生み出す。

日本有数の繊維の産地である広島県福山市で生まれた出原昌直さんは、大学を卒業してから大手繊維商社に就職。9年間務めた後に独立し、大阪で繊維を扱う会社を立ち上げました。その2年後に拠点を地元の広島に移し、しばらくは事業を軌道に乗せるために尽力していた出原さんですが、利益が出始めると「繊維の産地にいるのに、ものづくりを中国や東南アジアで行って、商品を東京や大阪などの都市部で売る」現実に違和感を抱き始めたのだと言います。

出原さん:『小さな頃は友人の母親たちがミシンを使って内職をしていたので、地元が繊維の街だという実感がありました。けれど実際に自分が繊維業に携わるようになって感じたのは、ものづくりの現場が労働コストの安い海外に移行していること。せめて「生産」か「販売」のどちらかの軸足が地元にあればいいのですが、そのどちらもない。経営は順調でしたが、これでは繊維の産地である地元に戻ってきた意味がないと思うようになりました』

そもそも広島は、繊維をはじめ造船や鉄工など労働集約型の産業に支えられて発展してきた土地。それらの産業に携わる出原さんの友人たちも、生産工場が国内から海外へと移行していることに危機感を覚えていたのだと言います。

出原さん:『このまま海外の労働力に頼っていたら、10年後には街から活気がなくなってしまうと友人たちと話していて、彼らと共に「この土地ならではの事業と雇用」を生み出そうと立ち上げたのがディスカバーリンクせとうちです』

ディスカバーリンクせとうちが目標として掲げたのは、瀬戸内地方の豊かな観光資源をもとに事業を生み出し、5年間で1000人の雇用を生み出すこと。出原さんは繊維業の会社を経営しながら、ディスカバーリンクせとうちの代表を務めることになりました。

流行を取り入れるのではなく、地域の人々の手で発信する。

2012年の設立以来、歴史ある建物を甦らせた滞在施設「せとうち 湊のやど」や、街全体をフィールドにする学びの場「尾道自由大学」、地元の人々にデニムを履いてもらってリアルユーズドデニムを制作する「尾道デニムプロジェクト」、伝統産業を未来に継承するための試みなど、さまざまなプロジェクトを展開しているディスカバーリンクせとうち。中でも、代表的なプロジェクトがサイクリストのための複合施設「ONOMICHI U2」です。

出原さん:『会社設立当初の目的は、お客さんに豊かな自然が残る鞆の浦で1泊、そこから車で50分ほどの尾道で1泊してもらえるような観光の流れを作ることでした。そのため、まずは古民家をリノベーションした宿泊施設を作りたいと考えたんです。僕たちには「街を盛り上げるために、その地域に根付いた事業を行いたい」という理念があって、その想いをまずは地元の人々に理解してもらいたいという気持もありました。いい物件を探して街を歩きまわり「せとうち 湊のやど」が完成したのが2013年。並行して、瀬戸内しまなみ海道の起点という特性を活かして「サイクリング、観光、建築」という切り口で事業を進める構想をしていました。するとタイミングよく、広島県から尾道にある海運倉庫の活用法を募集する公募があったんです』

尾道は愛媛県今治市まで続く「瀬戸内しまなみ海道」というサイクリングロードの本州側の起点。ディスカバーリンクせとうちはその特色に目を留め、尾道を訪れる自転車愛好家のためのホテル「HOTEL CYCLE」を中心に、レストラン、カフェ、ベーカリー、名産品ショップが併設されたONOMICHI U2の企画を提案したのです。そしてプロジェクトが採用されました。

出原さん:『尾道市内にはこれまでONOMICHI U2ほど大規模の施設がなかったので、観光客や地元の人々が集まるのかという不安もありました。実は当初、東京の人気ショップを誘致する話もあったんです。でも経営陣の間で、それが本当に地元のためになるかという議論になりました。人気ショップを誘致すれば軌道に乗るのは早いけれど、流行で終わってしまう可能性もある。20年後、30年後に、観光客からも地元の人々からも、ONOMICHI U2ができてよかったと思ってもらえる施設にしないと、自分たちがやる意味がないという結論に至りました。ホテル、カフェ、レストラン、ベーカリー、ショップと、複数事業のオペレーションを1つの会社で運営するのはかなり難易度の高いこと。サービス業は利益率の高い業態ではないし、人の採用も難しいですから。そのため経営陣の間では「儲けを優先したいのであればディスカバーリンクではなく、それぞれが経営している会社でやってください」と共有しています。リスクを背負わない限り、街のことを考えた永続的な事業は実現しないと思うんですよね』

日本の産業の未来のヒントは、伝統産業にこそある。

ONOMICHI U2のプロジェクトによって「利益優先ではなく、街のために事業を行う」会社の方針が、より強固になったと出原さんは言います。その理念があるからこそ、短期間に多くのチャレンジができるのではないでしょうか。ONOMICHI U2の館内にある「U2 shima SHOP」や「Butti Bakery」では地域の特産物を扱うだけでなく、障がい者施設「尾道さつき作業所」とコラボレーションした手作りチョコレート「BARQUE CHOCOLATE」や、広島県東部に伝わる伝統織物、備後絣を使った商品も販売されています。

出原さん:『ONOMICHI U2は、瀬戸内の名産品を販売するだけでなく、地域に根付いた伝統産業を発信する場所でもあります。たとえば日本三大絣のひとつ、備後絣は150年以上に渡ってこの地域で栄えてきた伝統産業です。時代と共に需要が減って、現在では2軒の織元しか残っていませんが、このような産業を未来に継承するための場所になりたいと考えています』

U2 shima SHOPには、子供服メーカーと備後絣とのコラボレーションアイテムなども置かれていて、伝統を受け継ぎながら新しい商品が生まれていることを確認できます。またディスカバーリンクせとうちでは、生産者が少なくなっている備後畳表の原料「い草」を育てるプロジェクトを高校生と共に展開しています。しかしこれらの伝統産業プロジェクトは「まだ始まったばかり」だと、出原さんは感じているそうです。

出原さん:『うちのスタッフがいきなり訪ねて行って「伝統産業を継承したいんです。売上も2倍に増やしましょう」と言っても、職人の方々にとっては恐らく大きなお世話なんです。人手も足りないし、機械も限られていますから。いま、うちのスタッフはアルバイトも含めると約100人いますが、コアなメンバーは20人弱。手がけているプロジェクトが多いため、兼任することも多い。伝統産業プロジェクトのように成果が出るまでに時間がかかるものは、丁寧に時間をかけて進めることが大事。そういう意味で、まだまだできているとは言えないんです。プロダクトは少しずつカタチになってはいますが、本気で伝統を継承するためには弟子入りするくらいの気持ちで向き合わなければいけません』

出原さん:『もちろん、伝統産業を伝えていくことは容易なことではありません。でも、伝統産業と向き合うことは「日本の産業の未来」について考える重要な機会だと思っています。最初にもお話しましたが、いま、生産工場の多くは労働コストの安いアジアに移行しています。香港、韓国に始まり、中国、インドネシア、フィリピン、ミャンマー。生産コストが合わなくなれば次の国に行けばいいという流れがあります。では、あと10年したらアフリカで作るのでしょうか。その後はどうなるのか。常に僕たちはお世話になった産地を捨てていっているんです。いまの日本の産業は「海外」という視点が強くなり過ぎて、知恵を絞らなくなった。昔の人はその視点がなかったから、生活や会社継続のためにもっと知恵を絞ったはずです。たとえば備後絣が事業として難航した明治時代の職人たちは、デニム事業に転換しました。そして戦時中に軍服を作ったことから、ユニフォームの産地になりました。備後絣からデニムというのは奇跡的な転換ですよね。そう考えると、事業利益が出なくなったからといってすぐに海外の労働力に頼る僕たちは、いかに知恵を絞らなくなったのかと痛感するんです。いま、伝統産業を継承するために知恵を絞って新たなものづくりを行うことこそが、日本産業の未来へのヒントになると考えています』

変わる景色と、いつまでも変わらない景色。

ONOMICHI U2ができて1年。人口14万人という小さな規模の尾道の街では、人の流れが目に見えて変わったそうです。ONOMICHI U2のある駅の西側に、より多くの人が流れるようになってきたのです。

出原さん:『ONOMICHI U2を作ったことで海外の宿泊客が増えたのと、週末にはサイクリングの格好をしている人が街に増えました。とはいえ1年目の集客は想定よりも低かったですし、売上もまだまだこれから。でも、やってみないと何事もわからないんですよね。開業当初、ホテルの宿泊はある程度稼働すると安心していたのですが、想定ほどは稼働しない状況でした。でも逆に集客が不安だったレストランは、地元の人々が昼間に利用してくださるので想定よりも好調なスタートを切ることができました。今年はオープン2年目ですが、すべての業態でだいたい前年比50%アップを記録しています。会社としては創設3年目。これからの1年〜2年が大切になる時期ですが、ディスカバーリンクせとうちを通して、ようやく地元に帰ってきた意味が見つかったと思っています』

同じ広島県の街でもフランチャイズ店の出店が目立ち、東京郊外のような景観になっている場所も少なくないそうです。しかし、いまは活気があるからいいけれど、もしも街の人口が減って景気が悪くなれば、それらの店は撤退する可能性も高い、と出原さんは言います。それは、アジアの生産工場を次々に移転していく企業と同じことなのかもしれません。未来を見据えたまちづくりのためには、その街の企業がリスクを背負ってでも、使命感と共に一歩踏み出す勇気を持つことが重要なのではないでしょうか。

8月31日に公開予定のシリーズ後編では、ディスカバーリンクせとうちが手がけているONOMICHI U2以外のプロジェクトや、県議会議員に就任された出原さんが考える今後の展望についてのお話をお届けします。お楽しみに。

(写真:森嶋一也、編集:松尾 仁、文:宗円明子)

ディスカバーリンクせとうち
広島県尾道市久保1−2−23 TEL:0848-38-1137
http://www.dlsetouchi.com

ONOMICHI U2
広島県尾道市西御所町5-11 TEL:0848-21-0550
http://www.onomichi-u2.com

出原昌直(いではら・まさなお)
1969年、広島県福山市生まれ。伊藤忠商事を経て、2000年に株式会社ディーフィールド、2012年に株式会社ディスカバーリンクせとうちを設立。2015年4月、広島県県議会議員に就任。

小川香澄(おがわ・かすみ)
1985年、茨城県生まれ。アパレルブランドの広告関係の仕事を経て、インド北西にあるゲストハウス「Hotel Tokyo Palaece」の立ち上げに携わる。2012年10月、ディスカバーリンクせとうちに入社。尾道デニムプロジェクトや尾道自由大学の運営を行う。

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